司馬遼太郎賞の奥山編集委員 受賞スピーチ


贈賞式でスピーチする奥山俊宏編集委員=2月16日、東京都千代田区有楽町で、白谷達也氏撮影

 

 第21回司馬遼太郎賞(司馬遼太郎記念財団主催)に、朝日新聞の奥山俊宏・編集委員の著書「秘密解除 ロッキード事件」(岩波書店)が選ばれました。取材を通じて、米側から見たロッキード事件を解きほぐした点が高く評価されました。現役の新聞記者による受賞は初めてです。
 2月16日の贈賞式で、奥山編集委員は「日本でジャーナリズムに携わる記者たちの一人として、いま厳しい時代にある日本のジャーナリズムの右代表として、司馬遼太郎先生から『元気を出せよ』と声をかけていただいた。そう感じています」と語りました。
 奥山編集委員は1989年に朝日新聞社に入社し、社会部などを経て現在は特別報道部に所属しています。近著に「パラダイス文書 連鎖する内部告発、パナマ文書を経て『調査報道』がいま暴く」(朝日新聞出版)などがあります。
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 贈賞式でのスピーチ全文をご紹介します。

 

司馬遼太郎賞を受賞して

2018年2月16日、東京・有楽町の読売会館で、奥山俊宏


 

 尊敬する司馬遼太郎先生の名を冠する賞を受賞する――。身に余る光栄です。

 賞を頂きました本、『秘密解除 ロッキード事件』は、私が書き著したものというよりも、先人たち、多くの先人たち――アメリカ政府の公務員、日本政府の公務員、あるいは、先輩のジャーナリストの方々――、そういう人たちの残した文章の上に、私の分析を加え、私の責任でとりまとめたもの、と言ったほうが実態に合っていると思っています。この本や、そのもとになった朝日新聞の特集記事を出すことで私が世の中に貢献したものがあったとすれば、その多くは、アメリカ政府の秘密文書、かつて秘密に指定されていた文書を「解き放つ」ということだったと思っています。この本に「面白い」というふうに思っていただけるような記述があるとすれば、そのほとんどは、基本的に、アメリカ政府の秘密文書の記述に負っています。つまり、私の文章力ではなく、それら公文書をつくったアメリカ政府の公務員の人たちの表現力に頼っている、というところが大きいです。

 日本政府の外交史料ももちろん参考にいたしました。しかし、残念ながら、この本の記述の多くはアメリカ側の資料に基づいています。日本政府の記録と、アメリカ政府の記録、その差は歴然としていました。アメリカの記録のほうが質が高く、量も多い。

 たとえば、1972年 (昭和47年) 8月31日の日米首脳会談の記録を見ました。同じ会談に関する記録がアメリカにも日本にもあります。アメリカの記録はワシントンDC近郊にあるアメリカの国立公文書館で閲覧を請求すると、1時間ぐらい後に出てきました。日本の記録は外務省に情報公開法に基づく開示請求を出したところ、数週間後に出てきました。いずれもかつては秘密に指定されていましたが、今は秘密指定を解除されていて、それを読み比べることができました。

 1972年8月31日、田中角栄首相とニクソン大統領の初めての首脳会談がハワイのクイリマホテルで開かれました。田中首相は中国との国交を正常化しようと政治的な決断をしていて、アメリカのニクソン大統領から何とかその了解の言質を得ようと説得します。日中国交正常化のメリットを田中さんは力説します。その田中さんに対してニクソン大統領は「うまくいくことを望む」と言います。ここまでは日米両国の記録が一致しています。

 ところが、アメリカ側の記録はそれにとどまりません。ホワイトハウスの記録を見ると、ニクソン大統領が「うまくいくことを望む」「Hope for the best.」と返答したという記述があるんですが、そこに「wryly(ライリー)」という単語が添えてあります。辞書を引いてみると、「顔をしかめて」とか「苦々しげに」とか、「ひねくれた態度で」とか、そういう意味がある副詞です。日本外務省の記録にはそれを窺わせる記述は一切ありません。

 「Hope for the best.」と言われた田中首相はここで、「日米間の利益は必ず守る」と強調します。ここも日米双方の記録にそういうふうに一致して書いてあります。ただし、ホワイトハウスの記録では、ここで、ニクソン大統領は時計を見た、と書いてあります。日本側の記録にはそれは書かれていません。

 田中首相とニクソン大統領の初めての日米首脳会談が終わった後、ニューヨーク・タイムズに「日本と中国の国交正常化をニクソンが受け入れた、そう日本側は感じている」という記事が出ました。この記事を見て、ニクソン大統領やキッシンジャー補佐官はどう思ったか。ひどく腹を立てたそうです。

 これもアメリカの記録を見れば分かることなのですが、ホワイトハウスとしては、田中首相に対しては、言葉で伝えるのではなく、物腰や表情によって本当の意思を伝える、という方針をあらかじめ決めていました。だから、苦々しげに「せいぜい頑張ってくれ」と言い、時計を見て会談を切り上げた、のです。ところが、日本外務省の記録を見ても、そういうことは分かりません。アメリカの「本当の意思」は見事に抜け落ちています。

 「うまくいくことを望む」「Hope for the best.」という字面だけを見れば、たしかに、ニクソン大統領は、中国との国交正常化を励ましている、了解を与えた、というふうに読めます。しかし、実態としては、ニクソン大統領は、ひねくれた口調で、「Hope for the best.」「せいぜい、うまくやってくれ」と言ったのだとすれば、そのニュアンスはかなり異なります。言葉に出して文句は言わないけれども、不愉快である、ということを日本側に伝えようとした、ということが少なくともアメリカ側の記録からは伝わってきます。

 日本側はそれを記録にすることができず、その結果、誤ったニュアンスがおそらく日本政府内部で共有された。そしてそれが報道されていった。それを見たニクソン大統領はひどく腹を立てた。

 ホワイトハウスの記録を見ますと、これ以降、キッシンジャー補佐官は内部の会議で、田中首相を「ウソつき」「信じられないウソつき」と呼ぶようになります。

 これは一例に過ぎません。アメリカには記録が残っているのに、日本には記録が残っていない、ということがたくさんあります。こんなことで対等にアメリカと渡り合えるのだろうか、と私は心配です。逆に言えば、アメリカは、こうした記録を持つことで、その外交に正統性と継続性、一貫性をもたせることができているのだろうと思います。

 こうしたアメリカ側の記録の中には、たとえば、自民党幹事長だった中曽根康弘さんからロッキード事件について「もみ消し」の依頼があったという詳細な公電があります。42年前の2月19日朝、中曽根さんはアメリカ政府への伝達を大使館に依頼しました。「もみ消す」という言葉がローマ字で「MOMIKESU」と書いてあります。当時の中曽根さんからすれば、万一、これを日本の有権者に暴露されれば、政治生命が危うかったことでしょう。そうした弱みをアメリカ政府に見せている、アメリカ政府に甘えている、と言って過言ではないと私は思います。

 アメリカ政府としては、そうした記録を持つことで、日本政府の枢要なポストにいる人の弱み――中曽根さんはその後、総理大臣になりましたが――、そういう人の弱みを握り続けることができます。そうした記録はアメリカの外交にある種の凄みを与えている。こうした記録を作成し、保存し、25年、30年、そういう時期が来たら公開する、そういう営みが、アメリカのスマートパワーの源泉の一つになっている。私はそう思います。

 それに引き換え、日本はどうなのだろうか、と私は考え込まざるを得ません。記録をそもそも作成しない。記録や資料があっても、それらをすぐに捨てたり、個人の私物扱いにして散逸させたり。そのときの担当の官僚の短期的・私的な都合に合わせて記録を歪めたり捨てたりする。記録が保管されていたとしても、それの利用があまり考慮されていない。なかなか公開しない。森友学園、加計学園の問題、あるいは、南スーダンに派遣された自衛隊の「日報」が防衛省によって隠された問題、そういった問題に触れなくても、これまでの私の取材の経験からすると、財務省、防衛省は本当にひどいです。裁判所も検察庁も訴訟記録をどんどん捨てています。私は心が痛みます。これらは、現在の国民に対する説明責任を免れようとする無責任な行いであると思いますし、政府の機能を効率の悪いものにするでしょうし、さらに言えば、将来紡がれていくであろう「歴史」に対する冒とくだと思っています。

 私、司馬遼太郎先生には全く及ぶべくもないのですが、一つ、なぞらえさせていただくことが許されるとすれば、史料へのこだわりです。

 膨大な史料を読みあさって、それを咀嚼し、そこから物語を浮かび上がらせて、自分の解釈を加えながら、歴史を紡いでいく。司馬先生の歴史小説はそのように書かれているのだと思いますが、振り返ってみれば、私、『秘密解除 ロッキード事件』もそのようにしてまとめました。

 日本の記録がアメリカの記録に劣る。その結果、戦後の日米関係の歴史は、基本的に、アメリカ側の資料によってつづられていく。日本のジャーナリストも学者もアメリカに行ってアメリカの公文書館でアメリカの史料に頼って論文や記事を書かざるを得ない。私にとっても、日本にとっても、本当に悲しいことです。

 日本の公務員や政治家、あるいは、私たちジャーナリストも、きちんとした記録をつくり、それを保存し、後世に伝え、いつかは公開する、そういう責任を果たす私たちでありたい、と感じています。

 さて、この本『秘密解除 ロッキード事件』の登場人物、その多くは、実は、司馬先生と同時代を生きた人々です。

 司馬先生は田中角栄について何と書き残しておられるか。調べてみますと、「中国と国交を回復したこと」を「田中角栄の功績」として高く評価していますが、「田中という人」については、とても批判的で、辛辣です。

 「金をつくるためにかれが日本の社会にあたえた測りしれぬ罪禍は、土地を投機の対象にする習慣を経済と日本人の骨髄にまで植えつけてしまったことである。」
(新潮社刊『司馬遼太郎が考えたこと 8 エッセイ 1974.10-1976.09』所収「一つの錬金機構の潰え」から)

 今でも通用する、非常に鋭い分析だと思います。

 その田中角栄が今や歴史上の人物になろうとしている。今回の受賞で私はそういうことも感じました。

 毀誉褒貶の激しい政治家たち。彼らをどうとらえるべきか。議論は続いていく。いずれ日本の歴史の中で、彼らは位置づけられ、評価されていくでしょう。その一助になったことを評価していただけたのがきょうの受賞だと感じました。

 最後に、私は、産経新聞の元記者の名を冠した賞を、読売新聞のホールで、岩波書店から朝日新聞の記者が出した本が受賞するというのも、一つの栄誉だと思っています。

 司馬遼太郎記念財団の上村洋行(うえむら・ようこう)理事長から「ジャーナリズム分野で今回初めて(授賞作が)出たことを大変喜びたい」とご紹介いただきました。

 今回の賞の選考委員のお一人、後藤正治(ごとう・まさはる)先生からは次のような言葉を頂きました。
「司馬さんは新聞記者の出身でした。この受賞は、いま厳しい時代にあるジャーナリズムへの『元気を出してくれ』というメッセージだとも思います。」

 私が考えますに、新聞も雑誌もテレビも、もともとあった大手マスメディアはいま、かつてない逆風にさらされています。だれもがスマートフォンを使ってインターネットに接続してそのコンテンツを気軽に手軽に見ることができるようになりました。既存のマスメディアの影響力は昔に比べるとずいぶん下がってきています。そして、そのことはそれぞれの報道機関の経営状況の悪化にもつながっています。また、さまざまな批判、ときには誹謗中傷にさらされることが多くなってきているということも実感しています。なかなか元気が出ない。萎縮してしまう。心が折れてしまう。というようなことも多くの記者たちが経験しているところだと思います。

 それに加えて、近年、報道機関の間で論調が鮮明に分かれる問題が多くなり、それが先鋭化する傾向が見られます。それが建設的な批判の応酬ならばいいのですけれども、たとえば、「報道機関を名乗る資格はない」だとか「日本人として恥だ」といった非・建設的な汚い罵倒の言葉も見受けられます。

 こうした近年の寒々しい状況を乗り越えて、産経新聞にも読売新聞にも朝日新聞にも岩波書店にも共通する価値観――民主主義社会における、独立したジャーナリズムの活動の重要性、自由な報道や言論の大切さ、事実に基づく報道と評論の大切さ、歴史と世の中に対する責任を果たし、真相に近づくために必要な記録の作成、保存、公開の大切さ――を改めて確認する契機として、私はこの受賞を受けとめたいと考えています。

 日本でジャーナリズムに携わる記者たちの一人として、いま厳しい時代にある日本のジャーナリズムの右代表として、司馬遼太郎先生から「元気を出せよ」と声をかけていただいた、そういうふうに私は感じています。

 司馬遼太郎記念財団の皆様、ここまで導いてくださった諸先輩、先生方、近しい人たち、朝日新聞社、岩波書店はじめ、多くの方々に深く感謝しています。どうもありがとうございました。